SAHO TERAO / 寺尾紗穂

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光のたましい、あるいは老ピアノとのダンス

 ときたま、長いこと生きてきたピアノに出会う事がある。調律師さんが全霊をこめて調律する。それでも、ライブの途中で音が狂ってきてしまうような、そんなおばあさんピアノ。ギタリストが相棒を持ち歩けるのとちがって、ピアニストはその日出くわした相手と踊るしかない。踊る相手がよぼよぼのピアノだったとき、それはピアニストにとって不幸なのだろうか、ということをよく考える。
 ライブで出したい音が出ない。瞬間は焦る。次第に工夫してオクターブ上の音を強く出して補完したり、強いタッチではなく優しく奏でてみると気まぐれに音がでることもある。ピアノに翻弄される、といえばそうである。それでも、何とか状況を成り立たせようと頭も体もフル回転する。なんとかライブを切り抜けたとき、不思議な愛着が生まれているのを感じる。そのピアノが大事に思われていたらなおのことだ。
 あの日、上野は雨で、私はゆくい堂のおばあさんピアノと久々に再会した。はじめてあったのは、2年前の年末恒例のライブ。ゆくい堂での年一度のライブは、もう5,6年前にさかのぼるのだけれど、その時は、とうとうアップライトが入りました、と聞いてはじめてのライブだった。聞けば、音大のピアノをメンテナンスしている調律師さんのお母様のピアノだという。お母さまも亡くなり、もう老体のそのピアノを、それでも手離すことができずに、誰かもらってくれないか、と考えていたのだという。ゆくい堂でピアノが弾かれ続けることを本当に喜んで、ライブ当日もはりきって調律してくれたのを覚えている。
 あの日、上野は雨でそんなことも関係したのだろうか。ピアノは、低音の三音ほどが不思議な響きをだした。弾いてみて、曲のコードとぶつかるものは、ゆくい堂の丸野さんがその場で適当に(?)弦を調整してくれ、ひどい不協和音とならないようにした。結果、まるでピアノと声以外の何か別の楽器が加わっているような不思議な雰囲気が醸し出されている。
 これはいわば、私とおばあさんピアノとのこの日限りのダンスであり、対話である。人が老いるように、楽器も老いるということ。私たちだれもが不完全なように、楽器にもまた不完全な音があるということ。美しい整った音で演じる、という原則を外れたところに、何か不思議な化学反応がうまれるということ。そんなことを思いながら、このMVを作っていた。私たちはみな孤独な存在であり、ひとしく光の存在である。そんな歌詞の世界ともどこか響きあう作品になったと思っている。